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  • 菅埼園地と春雨艦殉難記念碑

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    菅埼園地と春雨艦殉難記念碑

すげさきえんちとはるさめかんじゅんなんきねんひ

  • 菅埼園地と春雨艦殉難記念碑

  • 相差
  • 歴史

駆逐艦春雨(排水量381t)は、僚艦「磯波」「綾瀬」と共に1911年(M44)11月23日、横須賀軍港を佐世保軍港へと出帆した。

同日夜間に嵐に遭遇、避難のため的矢湾に向ったが、24日午前0時菅崎付近に座礁し、司令大瀧道助中佐、艦長児玉兼三郎大尉を含め乗組員64名中44名が亡くなる大惨事になった。

僚艦は沖合いで嵐をしのぎ、翌朝、岸近くに目にしたものは春雨の煙突4本のみと記録は伝えている。このとき、長岡村相差と安乗村の村民が嵐の中、総出で救出にあたり、海から挙げた瀕死者を女性が交替で体温で暖め蘇生させる、などの必死の努力がなされた。その後殉職した乗組員の霊を供養するため記念碑が建てられ眺望のよい記念碑公園(菅崎公園)として整備されている。

碑の文面は慰霊碑ではなく殉難記念碑となっており、殉難者の慰霊と救助に当たった村人の献身的な努力を称えるという2つの意味を持っていると思われる。毎年11月24日に殉勤供養祭が執り行われる。